ブログが更新されていませんが体調でも悪いのですか?とご心配いただくメールを山のように(ほんとは5通)頂戴しました。アリガトウゴザイマス、アリガトウゴザイマス!!体調が悪かった”わけ”でもホテルバイトが忙しかった”せい”でもありません(注:この”わけ”と”せい”の使い分けの違い、わかるかなー?)。
あ、これについて書かなきゃ、って思うネタがたまりすぎて、ひとつネタが来るたびにそれ以前の考えをひっくり返されて、ってことが続いて、もうどうにもまとめられなかったのです。
結論だけは定まりました。
あなたは悪くない
さー、これをどうやってまとめるか。
因果応報という言葉はあまり好きではありません。なんか「責める」感が醸し出されるので。
たしかに、アリとキリギリスの例で言うなら、キリギリスが冬場に困ってしまうのは因果応報です。夏場に遊んでちゃいけないんだ、と気づけたならリベンジできます。
いえ、できません(どっちやねん。
気づくだけではなくて、真面目に働くというアクションを起こすことが必要です。気づいていながら動けない、となると気づけてないよりダメージでかいですよね、罪悪感だけがのしかかってくるので。
気づいた上でアクション起こすか否かは本人の選択です。
でも、気づいたけど動けない、って人もいますよね。やる気が起きない、というご相談も多いですが、手を伸ばせばつかめるとわかっているのに手を伸ばせないのはなぜか。
物事にはワケがある。
では、気づけるか否かを分けるものはなんなのか。
気づくための素地、チャンスを与えられていない人もいるのです。
その後の進み方を多いに左右するポイント、それが人生の初期であればあるほど当人の「せい」という要素は少なくなります。
生まれ持ったものだから。
周囲から与えられたものだから。
自分で選択する力を持つ前にインプットされたものは、自分の「せい」ではないのです。立ち向かう力を持たないうちに外から与えられたダメージによる傷は、決して自分の「せい」ではないのです。
それをも「そう生まれたのはあなたの選択だ」というスピ系の意見に傾ける耳を私は持ち合わせておりません(少なくとも現時点では)。
長考のきっかけになったのがこれ。
著者は飲食専門のコンサルさん。読み始めた最初の印象は「深夜食堂か」でした。文章は正直おもしろみがないので読むのはちょっと苦痛でしたが、ネタのほとんどがコネクトロンでも扱った事例だったので、そういう(どう?)問題を抱えている人にはどう対処したらいいのかなー、と参考にするつもりで読み進めました。
最終章で
人に歴史ありじゃないけどね、みんな様々な悲しみや苦しみを乗り越えて生きてるんだよ。それでもまだ悩んで苦しんで、そんな話を聞いてるうちにね、ちょっとしたことに気づいたんだ。
未来を切り開くヒントっていうのかな、それは実は過去の体験にあるんだってね。
実は悩むポイントってのは自分の性格っていうか、生い立ちにあるっていうかね。
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