コップの水は半分しか?半分も?

みなさんご存知のように(知らんか)、同じものを見てもみなさんが感じているものと私に見えているものとはえらいことギャップがあることが多いです。

 

まー、コップに半分水が入っている場合、半分も入っていると思うか、半分しか入ってないとか、の違いみたいなものですが。半分も入ってる、と前向きに捉えることができるのはポジでいい、と世間では目されがちですよね。

いいんです、いいんですよ、前向きで。あえて闇には目を向けないってのはね。

 

コップの水の例でいえば、必要な水がコップ1杯分なのに、半分しかなかったらそれは足りてないってことじゃないですか。足りてないという現実から目をそむけるのはまずいこともあるかも。必要な量が1杯だとわかっている上で、半分もあるじゃないか、あとの半分はなんとかリカバーしよう、だったらいいですけどね。

 

なんの話だっけ。

 

50代女性さま、セッションの内容をブログ化させていただくことご快諾いただけました、ありがとうございます!

 

職場のモラハラ上司(男性)に悩まされていらっしゃいます。投げかけられる暴言に精神崩壊寸前のよう。

 

カード開きました。

1:ブロックしているもの「シャドー」

 

2:では、どうするか「手放す」

 

3:得られるもの「成功」

 

4:現状「戦車の逆位置」

 

シャドーというのは同性であることが多いですから、モラハラ男性上司はおとうさまのシャドーなのか?と思ってしまいますが、おとうさまは声を荒げることなどなく、おかあさまの意見を受け止めるタイプだったそう。

 

では、おかあさまの影響にはどのようなものがあったのか。

 

おかあさまは仕切り屋さんだったそうです。仕切り屋というと聞こえはいいですが、つまりは(あえて極端な表現をするなら)暴君です。自分の意見以外は認めないのです。自分の意志に家族を従わせるのです。

 

従わないという選択は、家族には与えられていません。

 

抑圧的な母に対して娘は立ち向かいますが、敗北が続くと当然のように戦果は深いあきらめをもたらします。

 

が。

 

敗戦ばかりの中のたまの勝利は強く記臆にインプットされちゃうんですよねー。

 

仕切りたがり

自分の意向最優先

家族の希望は受け付けない

あきらめ

自分を出さなくなる

 

おかあさまの「せい」で自分を出せなくなった、という自覚は多少はお持ちなんですが、多少ね、多少。

 

真綿で首をしめられるより、虐待されてたほうがマシ。だって痛みはわかりやすく、抗議の声をあげることができやすいから。正論という真綿で首をしめ続けられた子は、自分のダメージに気づかないのですよ。

 

もしくは。

 

気づいていたとしても、私はそんな目になんってあってない、そんな仕打ちを受けてるはずがない、大切にされてなかったなんて、尊重されてなかったなんて、そんなことはない!

 

思い出していただいたエピソードがひとつ。

 

小学校の時の一泊二日の修学旅行、おかあさまお手製の服で出かけられたそうです。

お手製であること、これ、ポイントです。

 

ワンピースのインナーに何を着るか、ご本人さまは白を希望しました。おかあさまは、赤を希望されました。自分が作ったものだけに、そのコーディネートには譲れないものがあったのでしょう。

 

白という希望はどうにも受け入れて貰えず、最終的には折衷案として、行きは白、帰りは赤、となったそうです。

 

それをですね、「私の意見を通した!貫いた!」とおっしゃるのですよ。

 

えー。

 

おかあさま、あくまでも譲らなかったのですよ、赤を。なんで「わかった、白がいいんだったら白にしなさい」と言えなかったんですかね。

 

コップの水、半分しかないより、必要な1杯があったほうがよくないですか?

 

ほんとは全然もらえなかったとこ、半分でも貰えてよかった、という状態です。それって、嬉しいことですか?

 

修学旅行の2日目、やっぱり白が着たい、と思ったんですって。でも、白を着たらおかあさんが嫌だろうな、と思って赤を着たそうです。

どうしても赤を着たいんだったら、赤を着て帰宅の直前で白に着替える、って手段もあると思うのですが、良い子はそんな親を裏切るようなことはしないのですね。

 

全面的に白を禁止されていたほうが、抑圧されたダメージは大きかったのではないでしょうか。うっかり半分を得てしまったがために、思いが通ったように錯覚をされてしまっています。

 

おかあさまは、娘が修学旅行に着ていきたいと希望したものを、頑なに認められなかったのですよ。

 

いいよ、好きなもの着ていきないさい

 

たったこれだけのことを言ってくれなかったのですよ。

 

さて、おとうさまです。

 

こうも自分を曲げることなく、いわば専制君主として家族を抑圧していた妻の「せい」で夫はどうなってしまったか。

 

おかあさまの口撃をやり過ごすようになってしまいました。

 

よくある勘違い、ぶつかり合いがなければうまくいっている。

 

そんなことは決してありません。

 

妻が投げたボールを投げ返すどころか受け取らない、馬耳東風、のれんに腕押し。

争い、言葉のぶつかり合いはもちろんありません。だからといって、うまくいっているわけではありません。

 

受け取ってくれないとどうなるか、ムキになりますよねー。

 

聞きたくない、と天の岩戸に閉じこもってしまったら、ひっぱり出すためにあの手この手を使います。蓋が頑丈になればなるほど、ひっぺがすための攻撃は激しくなるのです。

 

まだ口を開かないのか?

 

まだ平気なフリをしているのか?

 

その攻撃に向き合うのではなく、なんとかやりすごす、うまくとりなす、というやり方をおとうさまはなさってしまっていました。

 

機嫌を損ねないように、攻撃をさせないように。

 

抑圧をしかけてくる力に対して、やりすごす、とりなす、というおとうさまのやり方を、人との関わり方において発動なさっていらっしゃったのですよねー。

 

強圧的な言動ってたしかに怖いです。怖いから、なんとかそれを収めたくなるのは致し方のないことですが、そのために「向き合う」ということができなくなってしまっていました。

 

つまり、相手の意志を尊重しない、です。

 

向き合って貰えてないほうには怒りのようなものが溜まっていきます。

 

無視すんなよ!

 

こっち向けよ!

 

シャドーというのは同じ形で現れることばかりではなく、ネガとポジが反転している場合もあります。

 

モラハラ男性上司は、妻に向き合うことをしなかったおとうさまの反転シャドー、向き合ってもらえないことへのおかあさまの怒り、そして、自分を出してぶつけ合うということができなかったがゆえに、出せていなかったものを引き出すための存在でした。

 

自分の意志を貫くために他者の言葉を封じる、その攻撃を少しでもやわらげるために、ぶつかり合うことをせずにやりすごす、結局自分は出せていない。

 

気づいていただきたいことは、いかに自分を出せていなかったかということと、キャッチボールをせずにやりすごすということが癖になっていたか、ということです。

やりすごすということは、自分が本当に言いたいことは言えてないわけです。伝えるべきことが伝わっていないのです。

 

出せるようになるためには、まず、出せていなかったということに気づいていただくことが必須。

 

たかだか一泊二日の旅行、それにわざわざ行きと帰りの服装を変ることを求めるおかあさまの力、これは決して半分を勝ち取った、という成功体験ではないのですよ。半分しか貰えなかったのですよ。半分しかくれなかったのですよ。

 

おかあさまの手作りのお洋服というのは、それは嬉しいものでしょう。せっかく作ってくれたのだから、というのがまたおかあさまの意向を優先する要素となってしまっていましたね。

 

抑え付けられているものは、いつか飽和状態となって爆発します。それをまた頑なに拒むと、蓋をひっぺがそうとする力はより強力になります。

 

それが今回は、パワハラ上司という形となって現れたのでありました。

 

言葉数の多い人ほど、言いたいことを言えていると勘違いされる傾向にありますが、発せられている言葉が相手に本当に伝えたいことではなくて、「あー、はいはい、わかった、わかった」と目を合わさずに喋っている状態になっていないか、ちょっとご確認を。

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