死にたいと思ったこと、ずーっとなかったのですけど、そういえば数年前に1回ありました。それが「死にたい」と人生で最初に思ったときじゃなかったかな。チビが中学に入ってですね、お弁当を作らなくてはいけなくなったのですよ。ある朝、お弁当箱にも詰めて、さ、出来上がり♪というところで、そのお弁当箱を床に落としてひっくり返してしまいました。そのときです、「死にたい」と思いました!!
しょーもない話でスイマセン、スイマセン。でもほんとに私の人生で初めて「死にたい」という気持ちというかフレーズですね、それがやってきた時だったのです。これを忘れられないほど、私にとって「死にたい」という気持ちは無縁なものだったのですよ。物事の解決手段として「死ぬ」ということが思いつかなかったのでしょう。
なんだ、私ってば意外と前向き????
あ、でもね、死ぬ死ぬ詐欺はほんとやめて欲しいですね。絶縁したウチの母もしょっちゅう「線路に飛び込みたい」って言ってて、そんなんでもしほんとに飛び込まれたら、なぜ止められなかったのか、と死ぬまで自分を責めることになりますやんね。
これ の続きです。
「終わって欲しい」という気持ちから出てきたのは3歳ちゃん。
夜、ひとりで寝ています。
下の部屋からおとうさんとおかあさんが喧嘩している声が聞こえます。
お兄ちゃんはいません、ひとりで怖いです。
怖い、という気持ちをもし誰かにわかって貰うとするなら、誰になんと言えたらいいですか?
死ねばいいのに
おお〜っと〜。
普通は、という言い方は適切ではないかもしれませんが、普通はここで「おかあさんに怖いと言いたかった」とかって出てくるのですよ、それが「死ねばいいのに」って。
では、死ねばいいのに、と言えたらどうなれますか?
楽になれる
へ?
死ねばいいのに、と言えたなら、死ねばいいのに、と思わなくて済むようになって楽になれる
ほー!!!!
「死ぬ」ことは目的ではなくて手段なのですね。
参考エントリー:手段と目的のすり替え
目的は何か、楽になることです。
では、何が楽でないのか、何がしんどいのか
ご両親の諍いです。
楽になる、というのはなんとか肯定的な部類にはいるものですが、その「楽」をもって未来に進んでいっていただいても、気持ちが明るくなるような光景が出てきませんでした。
自由とはひとりであること、でもその自由は好きなことが出来る、という自由ではなくて、嫌なものに縛られなくていい、という消極的なものでした。
ひとりで生きていく、ひとりで食っていかないといけない。その自由はしんどさしか感じさせないようです。
ここでトランスを中断しました。
では、ひとりで生きていかなくてはいけないと思わせたものが何ですか?
おとうさん。
続きます。
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