みなさんご存知のように(知らんか)下田治美の「愛を乞う人」は私のバイブルです。「愛情乞食」という概念を教えてくれて、自分が愛情乞食以外の何者でもないと知らしめてくれました。乞食ってのはね、くれくれオバケなんですよ。易の卦でいうなら、山雷頤の初爻ってとこですかね。
何年前でしょ、アメブロで紹介させていただいたと思うのですが、当時も「たいへん参考になった」というご感想を多く頂戴しました。数年ぶりに再読しました。
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アマゾンのレビューも批判的なものが多いですし、初版の2001年よりかなり時間がたっていますので現在の内容にそぐわないことも多いですが、それでも「やっぱりねー」と思わされることのほうが多いです。2001年から状況は改善されてないのです。
それどころか、精神科、つまりメンタルのお薬に症状の改善を委ねるものが増えている、発達障害とかね。
以下、今回目についたところ。
・病院の門をくぐるとその時点で病人とされる
これが「病名」がつく、ということですね。病名がついて初めて治療が開始される。きちんと診断して病名をつけれない限りは治療(投薬)もできないはずなのに、そこんとこテケトーなとこが多い。だってそもそも診断の基準とされているDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)そのものに首をかしげるところが多いのに(イギリスでは、あれは英語ではない、特殊な言語だ、とまで言われているそうです)。
・立場という役割、性別での役割。役割というものは、それを果たす強制力がくわわった場合、ただちに抑圧になる。抑圧はひとを鍛えもするが、苦役にもなる。
これはいつも言ってることですよね、役割の恐ろしさ。役割によって抑圧されている方がメンタルに支障をきたしてることが多いってことです。病をどうにかするのではなくて、役割からの解放がなければ治るはずもありません。
・発症するということは、その時点での加齢が止まるという意味なのだ
これがですね、トランスで戻っていただく年齢なんですよ。そこで止まっているんです。なのでそこから成長を再び進めていただくのです。本来はなかったものを手にして。これがタイムラインです。薬では成し得ないことをやっている、と自負できる点です。問題が起きたポイント、その最も古いもの、それにこだわる所以です。
下田治美は読む人を選ぶ、好き嫌いがはっきりとわかれる物書きさんでしょうけれど、自分が求める真実にたどりつくまでの邁進力は他者を頷かせるだけの説得力がありますねー。
参考エントリー:心療内科医はいらない
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