これ の続きです。
みなさんご存知のように(知らんか)私はかわいそがられるのが好きです。かわいそー、とか、たいへんねー、って言われるのが大好きですっ。嬉しい、労られてる!って。が、かわいそー、とか、たいへんねー、って言われるのが嫌だって方も多いですね。
同情という言葉は本来は同じ感情を共有する、寄り添う、という意味だったはずなのに、なぜかそこにウエメセの憐れみを有するようになってしまって良い意味で使われなくなってしまいましたね。
かわいそうなものはかわいそうなので、かわいそうなものに「よかったね」などと言えるはずもないのですが、そこにイヤを感じてしまうのは屈辱スイッチを押されてしまうからなのでしょう。
参考エントリー:
そう、私は「かわいそー」を労られてる、と受け取ることができるのですが。
が。
茶化されることに対しては「屈辱」を感じるのですよ。そう、世間のみなさまが「かわいそー」に対して屈辱を感じるように。
卑屈の反対は傲慢。では屈辱の反対は?
私はプライドだと思うのです。自分の自負、矜持、そういったものを傷つけられること、貶められること、もしくは貶められたと感じることが屈辱なのです。
落合恵子さんはなぜ屈辱的な匂いに敏感になってしまったのか。母子家庭であること、婚外子であることは落合恵子さんをなんら損なうものではありませんが、母子家庭だから、婚外子だから、と貶める人がいたのでしょう。その貶められることに対して「屈辱」を感じ、自分に屈辱を感じさせるであろう存在に対して過剰防衛となってしまっていたかもしれません。
防衛=鎧は、人との間に距離を作らせます。
そ、ほんとに貶められているならまだしも、貶められている、と勝手に思ってしまうこと、貶められると防御してしまうことが問題なんですよねー。
私の場合を言えば、茶化されることに対して屈辱を感じるということは、茶化されることで貶められたと思ったということです。
なぜ茶化されることが貶められることになるのか。
続きます。
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